2009年06月16日

一汁一菜(いちじゅういっさい)とは、日本における

一汁一菜(いちじゅういっさい)とは、日本における食事の献立の構成の一つ。

主食 - 白飯など
汁物 - 味噌汁など
おかず(惣菜)1品
漬物(香の物)
の4種類をセットにして食べるもの。通常、香の物は数に含まれないため主食以外が「一汁一菜」となる。 おかずを3品(主菜1品+副菜2品)にした「一汁三菜」の構成も良く知られている。
日本映画
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為替レート
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歌舞伎
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サーフィン
薬膳
カバディ
高齢出産

一汁一菜は、おかずが一品のみしかない「質素な食事(粗食)」の意味で用いられた言葉であったが、食生活の欧米化や飽食が問題視されるようになった近年はむしろ良い意味の言葉とされ、日本の伝統に基づいた形式の「バランスが取れた食事」とされる向きが大きい。

元々は鎌倉時代に禅寺で採られていた、質素倹約を重視した食事の形式を指す言葉であった。よっておかずも野菜を用いた極めて質素なものであった。 (ただし、特別な日や来客時には「一汁三菜」となった) この食事形式が一般の人々にも広まり、やがて一汁一菜・一汁三菜が日本の伝統的な日常の食事形態として定着するに至った。 江戸時代には上杉鷹山や池田光政が人々に倹約のために食事を一汁一菜にするよう命じたことが知られている。

2009年05月30日

氏族としての豊臣氏の歴史

氏族としての豊臣氏は、羽柴秀吉の兄弟姉妹および彼らの子孫たちからなる一族であるといえる。

秀吉は乏しい親族を取り立て、弟秀長を大和国郡山100万石、甥秀次を近江国八幡43万石にとそれぞれ取り立てた。1589年には実子鶴松が生まれ、後継者と定めていたが、1590年に天下統一を果たした直後の1591年には秀長と鶴松が相次いで死亡する。

落胆した秀吉は甥秀次を後継者と定め、1591年に関白職を譲る。しかし、秀吉は全権を譲らず、太閤(※本来、太閤とは子弟に関白を譲った人物を指す)と呼ばれつつ豊臣宗家直轄領と軍権を掌握しつづけたので、次第に二重政権の矛盾が表面化してきた。しかも1593年に秀吉に再び実子秀頼が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。1595年、秀吉は秀次を高野山に追放し、切腹させる。これによって二重政権は解消され、豊臣政権は再び秀吉のもとに一元化されるが、政権の正統性の拠り所である関白職は豊臣宗家から失われた。また、秀長を継いだ秀保もこの頃死に、豊臣宗家を支える血族の藩屏は存在しなくなった。
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1598年に秀吉が死ぬと、後事を託された有力大名の中から徳川家康が台頭し、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成ら豊臣政権擁護派の諸大名を倒し、覇権を打ちたてる。1603年に家康は征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、1605年には将軍職を子の徳川秀忠に譲って徳川政権の正統性を確立していき、豊臣宗家は全国政権の座から完全に滑り落ちてしまった。

しかし、徳川政権の確立していく様を見ても、豊臣秀頼は一大名として徳川将軍に臣従することを認めなかった。これに後顧の憂いを感じた家康は、1614年に大坂冬の陣を起こし、さらに翌年の大坂夏の陣で大坂城を落とし、秀頼らを自害させる。秀頼の遺児・国松は、同じ慶長20年5月23日(グレゴリオ暦1615年6月19日)に京の三条河原にて処刑され、ここに秀吉の興した豊臣宗家は断絶した。

なお、国松は薩摩に逃れて島津家にかくまわれ、豊後国日出藩木下家の分家である交代寄合木下家の祖・木下延次になったという異説がある。その子孫は現在、先祖の豊臣姓を苗字に名乗っているという。しかし、幕府に認められた正式な豊臣氏の継承者は、高台院が晩年にむかえた養子の羽柴利次(実父は小早川秀秋の兄・木下利房)とされている

2009年04月27日

塹壕突破戦術

大規模な塹壕戦が展開された日露戦争では塹壕に潜む敵兵を殺傷する手段として小型爆弾を塹壕に投げ込む戦法がとられ即席手榴弾が使用された。 さらに遠距離の塹壕へ爆弾を投げ込むために日露双方で迫撃砲が作られた。迫撃砲を英語でトレンチ・モーター(塹壕臼砲)と呼ぶようになったのは塹壕戦で使用されたことに由来する。

第一次世界大戦では、防御側の塹壕をいかに突破するかという戦術に両軍とも頭を悩ませた。

砲撃
第一次世界大戦の戦死者で最も多かったのは塹壕内で砲撃を受けたことによるものであった。しかし砲撃によって防御側を殺傷できるのは不意打ちのときのみである。砲撃が始まれば、歩兵部隊は塹壕の横に設置された地下壕へ避難する。地下10メートルの深さに設けられた地下壕は、当時のいかなる野戦砲弾でも破壊することはできない。
歩兵による突撃
犠牲を覚悟で歩兵による突撃を反復して行えば、いつかは防御側の第一線塹壕を占領できるだろう。だが防御側の塹壕は二重、三重のラインで築かれているのが通常であるので、犠牲覚悟の攻撃を繰り返さねばならない。さらに、第一線塹壕は元の敵陣であるから防御側の砲兵の照準は完璧であり、攻撃側がその場に留まっていては砲撃の餌食となってしまう。
毒ガス
毒ガスは、イープルの戦いでドイツ軍が初めて使用した。使われた毒ガスは比重が空気より重いため、塹壕内や地下壕内の歩兵部隊に被害を与えることができる。だが、初期の毒ガスは呼吸器系統に作用する塩素系ガスであったことから、防御側の歩兵がガスマスクを適切に着用すれば、さほどの戦果をあげることはできなかった。
坑道戦
坑道戦は、防御側の塹壕の地下にトンネルを掘り進み、地下で爆弾を爆発させて塹壕を破壊するものである。イギリス軍はメシヌの戦いで坑道戦を実施し、地下に仕掛けた600トンの爆弾で1万人以上のドイツ兵を殺傷した。だがこのときのトンネルの掘削には1年以上の作業期間を要した。坑道戦はあまりにも時間がかかりすぎ、特殊なケースを除けば実用的ではない。

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戦車
戦車は、ソンムの戦いでイギリス軍が初めて使用した。戦車は、装甲が施され、無限軌道(キャタピラ)を装着して、有刺鉄線のバリケードや機関銃の弾をものともせず前進することができた。しかし、防御側が幅の広い対戦車壕を設けると、戦車でも突破しきれず、塹壕突破の決定的手段とはならなかった。
浸透戦術
浸透戦術は、ドイツ軍がカポレットの戦いや1918年の春季攻勢で実施した戦術である。長い塹壕線には部分的に手薄な地点や防御上の死角がどこかにある。分隊単位で編成された軽装備の突撃部隊(Stoßtrupp)が、現場の判断でそうした地点を探して突破し、防御側との交戦を避け、第二線、第三線の塹壕も突破する。多地点で同時にこの攻撃を実施することで防御側を混乱させ、その間に司令部や砲兵陣地を衝く。指揮系統との連絡や砲兵の支援を失った防御側の前線部隊は無力化されることになる。ドイツ軍は浸透戦術を採用してカポレットの戦いに圧勝し、西部戦線でも前進に成功した。だが突撃歩兵は限られた装備・補給しか持たないので、防御側が十分な予備兵力を持ち、迅速に戦線の穴を塞ぐと、それ以上の突破を続けることは困難であった。
電撃戦
第一次世界大戦で敗れたドイツ軍は、第二次世界大戦では戦車の集中使用による電撃戦を創始した。まず歩兵部隊が浸透戦術をもって防御側の戦線に穴を開け、防御側の予備兵力がこれを塞ぐ前に戦車部隊が穴から突出し、一挙に敵の背後に回りこむ。1939年のポーランド戦や1940年のフランス戦では、ドイツ軍は電撃戦により連合軍をわずか数週間で崩壊させた。しかしその後も、1943年以降のイタリア戦線や朝鮮戦争など、戦車の集中使用が困難な山岳地帯が戦場となった場合は、引き続き塹壕戦が展開された。

2009年04月10日

モダン・オーボエのリード

発音体であるリードは奏者によって製作されている。この楽器を学ぶ者はリード製作技術の習得も必要である。これはリードが消耗品であり、たとえ良いリードであっても同じリードをいつまでも使い続けられないためである。

なおリードにも、国柄、使用している楽器のメーカー、またそのモデルによるスタイルの違いが見られる。アメリカではロングスクレープと呼ばれる、リード木部全体(といっても5分の4から3分の2程度)が削られているものが主流である。ヨーロッパではショートスクレープと呼ばれる、リード木部全体の半分以下の部分が削られているものが主流である。しかし一方、アメリカ以外でもイギリスには古くから、やや異なった形でのロング・スクレープの伝統があり、独特な楽器で知られるウィーンのスクレープも長めである。

ドイツの奏者の中にもスクレープの長さは短いながらも、その中での凹凸の付け方がアメリカのロングを縮小したようなスタイルを好む者もあり、他方でスタイルはアメリカンながらスクレープは全体の2分の1程度のものも見られる。

リードの設計によって全音域での音程バランス、第1、第2オクターブの音程バランス、ピッチ、高音の発音の容易さ、音色の変化の幅、アーティキュレーションの容易さ、その変化の幅、アンブシュールへの負担など演奏について多くの影響が及ぼされる。

リード制作に必要な道具・材料 [編集]
リード材
加工の度合いにより、丸材、かまぼこ型、舟型と呼称が変わる。リード制作入門者は舟型から入ることが多い。

チューブ
先端が楕円型の元が円錐形の金属管(45mm - 48mm)にコルクを巻いたもの。コルクを巻くのは、楽器本体に差し込むためである。最近は、金属管にゴムを巻いた製品も登場した。

リードナイフ
切れ味がよく、自分の手になじみ、使いやすければ他のものでも代用できる。右利き用、左利き用とある。荒削り用として切り出しナイフを使うと仕上げのためにナイフを研ぎ直さずに済む。

カッティング・ブロック
リード制作の過程で使用。表がやや球面状で、直径約4cm程度、高さ1cm - 2cm程度の黒檀製のもの。リードの先端をナイフで切り落とす際のまな板のようなもの。

プラーク
先端をカットした後、リードの先端から差し込む。リードを削っていく際、リードが割れないようにするためのもの。下敷きの意味合いがある。舟形と呼ばれる上から見た形が紡錘型のものと、底辺の短い二等辺三角形の形をしているものがある。サイドを削るためには二等辺三角形型が良い[要出典]。


リード材をチューブに巻き付ける際に使用。材質は絹製、ナイロン製等。手芸用に販売されているポリエステル製でも良い。絹製は振動を押さえることが少なく、モダンテックニックを駆使する際に都合が良い。ナイロン、ポリエステル製はやや振動を抑えるので、その分リードを削る必要がある。色は各種あるが、好みに応じて使う。巻き方は少々こつがいる。

シェーパー
リード材を、かまぼこ型から舟型に加工する際に使用。削り幅の違いによって音に影響が出てくるため、数種類が販売されている。好み、楽器との相性によって選択する。

ガウジングマシン
リード材を丸材からかまぼこ型にする際に使用。丸材を3等分の扇形にカットし、リード材の内側を適正な厚さまで削り落とす。アマチュアでここから作業する人はごく少数である。リード材を固定するベッドの直径はオーボエ用としては10mmと11mmの2種類が多い。フレンチ、アメリカンタイプのリードを製作する場合は11mm、ジャーマンタイプを製作する場合は10mmが適している。

メイキングマシン
糸で巻いたリード材を、手ではなく機械で削るためのもの。あくまで補助的な機械であり、最後の仕上げは手作業となる。数十万円するので、プロでも必ず持っているというわけではない。

針金
完成したリードに巻き付けて、リードの開き具合を調整する。主にショートスクレープタイプのリードに使用。どうしても響きを抑える効果を持ちやすいため、使用は好みによる(必須ではない)。針金を用いることで(無理やり)開き具合を調整するというよりは、別途手などで調整した結果の状態を保つように使うのがよりよいとも言われる[要出典]。一般的に0.3mmの真鍮製が使われている。

フィッシュスキン
完成したリードに巻き付けて、息漏れを防ぐためのもの。本来息漏れはない方が望ましいが、材料の削り具合や制作者の力量により、制作過程でどうしても息漏れが発生してしまうことがある。従って、これも使用は任意である。リードに生じたトラブルの応急処置としても使われることがある。
水道管工事に使われる防水テープを使う場合もある。フィッシュスキンよりリードの振動を抑える傾向がある。

耐水ペーパー
リード材の内側を磨いたり、シェーパーで型取ったケーンの仕上げに、リードのティップを整えたりと使用範囲は多い。#1000がよく使用されている[要出典]。

その他の道具 [編集]
水入れ
演奏中のリードは乾燥してしまうと発音などに影響を与えるため、リードは湿らせておかなくてはならない。そのための水を入れておくためのもの。写真のフィルムケースや、風邪薬の空き瓶などを利用することが多い。演奏後は、カビ防止のため、乾燥させておく[1]。

種類 [編集]
オーボエ属の楽器としては、オーボエの他に

オーボエ・ミュゼット
オーボエ・ダモーレ
イングリッシュホルン(コーラングレ)
バリトンオーボエ(バスオーボエ)
ヘッケルフォーン
などがある。また、ファゴット属のファゴットやコントラファゴットもダブルリード式の楽器であり、同じ発音原理を持つ。オーボエ用のリードとファゴット用のリードでは大きさが違うだけで、音響学的にみて非常に近い楽器である。

オーケストラで使われることはないが、チャルメラ、篳篥も、複簧管楽器(ダブルリード式の楽器)である。 (なお、オーケストラ曲の中で特殊楽器として篳篥を効果的に使っているのが、山田耕筰の交響曲「明治頌歌」であり、明治天皇崩御の悲しみを象徴的に表現している。)

スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか


2009年03月26日

人間便器

人間便器(にんげんべんき)は人間を便器として用いることを指す概念、あるいはその行為を行なう人間のこと。英語ではhuman toiletという。

官能小説やSMプレイに登場するかなりハードなSM行為である。基本的にはスカトロジストによる自発的な場合が多いが、SMにおける調教の一環として強制的に行なうこともある。一般的には便器役の人間は床に寝そべり、口を開ける。その口を便器に見た立て排泄することが多い。顔面騎乗の体勢からそのまま排泄することも多い。強制的に行なう場合は開口具を用いて口を開く、あるいは身体に排泄物をかけて屈辱を与える。漫画や小説では顔に透明の容器をかぶせられ、そこに尿をされることで呼吸が出来なくなり仕方なしに尿を飲み干す、という責めもある。また、対象となる相手を数日間監禁し、その間、排泄物を与え続けるというプレイもある。これは健康面でも非常に危険な行為である。

いずれにせよ、便や尿は汚いもの、唾棄すべきものの最たるものでありそれを経口摂取させられることは人間として非常な屈辱を感じる行為である。この行為を通じて相手の自尊心を破壊し、存在を貶める効果があるほか、自分に対する忠誠心を試し、奴隷であることを体に憶えさせる効果が期待される。主人の奴隷に対する味覚を通じてのマーキングでもある。また、調教が進むにつれ、当初は奴隷にとっては屈辱であり罰であったこの行為が次第に甘美な「ご褒美」の側面をもつようになることもある。

言葉の変化 [編集]
かつて人間便器は、食糞・飲尿行為を行なう人間のことだけを意味していた。ところが、肉便器が、排泄行為(食糞や飲尿)とは関係なく、不特定多数との性交渉を行なう女性を揶揄する言葉として使われるようになってからは、意味が少し曖昧になっている。「便器」が共通しているため、人間便器が肉便器の意味で使われることもあるからである。

危険性 [編集]
飲尿に関しては、健康な人間であれば尿は無菌なので即座に健康に影響することは少ない。しかし、大便は腸内細菌を含み、病原性大腸菌などの影響が懸念される。できれば行わない方が賢明である。

インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア


2009年03月11日

ミグアシャ国立公園

パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

ミグアシャ国立公園はカナダ・ケベック州にある自然保護区である。この公園はデボン紀の化石、特に魚類から四肢動物への進化を考える上で重要な化石が多く出土している点に特色があり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。デボン紀の地層で世界遺産に登録されているのは、2008年時点ではここだけである[1]。

「国立公園」と呼ばれているものの、実質的にはケベック野外施設協会(Société des établissements de plein air du Québec ; SÉPAQ)を通じて、ケベック州政府によって管理されている州立公園である

ミグアシャ地方はケベック州のガスペ半島に位置するが、遠くでアパラチア山脈の若い山々が聳えはじめていた3億7000万年前には、この一帯の河口は赤道近くにあった。

その河口の縁で、サソリやその他の陸棲節足動物が生息する原生林が生い茂っていた。河口部では、流れや潮に身を任せて様々な魚類がぬるま湯のような温度の水中に生息していた。魚類には硬い棘を与えられていた種もあったし、外骨格の殻に守られている種もあった。また、分裂して対になったヒレや肺を具えた種もあり、短時間なら水の外に出ることが可能になった。この対鰭の具有が進化の最も重要な段階の一つであり、魚類と四肢動物を架橋するものとなった。

脊椎動物の進化の中に刻まれたこの出来事は、エスクミナック層(? formation d'Escuminac ?)と呼ばれる地層によって、今日知ることができている。この地層は、ケベックのシャルール湾(Baie des Chaleurs)の河口部分にあたる、ガスペ半島南岸沿いの断崖に残っている。

最初の化石発見は1842年のことで、ケロシンの発明者でもあるエイブラハム・ゲスナー(Abraham Pineo Gesner)によるものであった。それ以来、今日までに、エスクミナック層では、3億7000万年前に海岸付近で生息していた21種ほどの魚類とその他いくらかの脊椎動物、そして10種程度の植物の化石が出土している。この場所で発見された魚類の化石には、6つに大別されるデボン紀に生息していた魚類のうちの5つが含まれている。つまり、地球史において「魚の時代」とも呼ばれるデボン紀を知る上で、ミグアシャから得られる知見は最も代表的なものと言いうるのである。

ミグアシャの発掘現場が有名なのは、化石保存状況の質と量の双方に負っている。量の面で言えば、1998年に纏められた出土化石の一覧には、ガスペの断崖から出土した化石が実に14200点以上挙げられている。その半分は国立公園のコレクションに加えられ、残りは9箇国の博物館、大学、研究所など計33箇所に送られた。

保存状況の質的側面でも、ミグアシャで出土する化石は高く評価されている。完全な標本や三次元的な標本が見つかるというだけでなく、軟骨のような柔らかい部位の化石、糞、鰓の痕跡、血管や神経の痕跡なども見つかっているのである。

動物相
無顎類
無顎類は顎骨を持たない魚であり、種の進化の中で明らかになっている最古の脊椎動物を構成している。ミグアシャで出土したものには4つの種が存在している。

エンデイオレピス・アネリ(Endeiolepis aneri)
エウパネロプス・ロンガエウス(Euphanerops longaevus), Anaspidaを代表する。
エスクミナスピス・ラティケプス(Escuminaspis laticeps)
レウェスクアスピス・パッテニ(Levesquaspis patteni), Osteostraciを代表する。
進化論的な観点でいえば、Osteostraciのグループに属する2つの種は、このグループの最後の例である。

無顎類のうち、エスクミナスピス・ラティケプスは、2004年12月に脊椎動物の中で対鰭の最初の内骨格を叙述されるようになった。このパターンは、endosquelettiqueの支えが放射状のいくつかの要素から成り立っていることを求める理論とは反対に、石灰化した軟骨でできた単一の板でできている。この発見は、最終的には四肢動物に繋がっていくヒレの進化を理解する上で、重要なものである。

欠甲類(anaspida)の2種類については、ミグアシャにそれらが存在していたことは、驚くに足る。デボン紀の下層で見つかったいくつかの鱗を除けば、エンデイオレピス・アネリとエウパネロプス・ロンガエウスが、シルル紀に絶頂を迎えたこのグループの最後の生き残りなのである。今日、無顎類で生き残っているのはヤツメウナギとヌタウナギなどだけである。

板皮類
板皮類は骨質の甲殻を持つ魚類である。デボン紀の水中環境で最も広く見られたが、この紀の終わりにほぼ完全に絶滅した。ミグアシャで見つかっているのは、胴甲目のボトリオレピス・カナデンシス(Bothriolepis canadensis)と節頸目のプロウルドステウス・カナデンシス(Plourdosteus canadensis)である。

エスクミナック層内での保存状態は良く、ボトリオレピスの標本には、胸部の骨板や鰭の下にあった血管の痕跡を見出せるものがあるほどである。そのことは、2004年の研究で明らかになった。たとえこの魚の化石の再構成が底生生物の生活様式に適応した平べったい魚であることを示していようとも、その研究は、平たさではなく、その背部の甲がより曲がっていて、頭蓋骨が前方に一層強調されていることを示している。それはオーストラリアのゴーゴー累層(Gogo Formation)から出土するものに見られるものと同種である。

プロウルドステウスは、歯のない顎を具えた捕食者である。歯が無いとは言っても、上顎は骨化した平らな板状になっており、それが下顎骨に押しつけられるようになっていた。この板の閉じられる領域が、まさに本物のハサミのように機能していた。

棘魚類
棘魚類は腹部と背部に硬い棘を持つ小型の魚である。棘魚類はシルル紀からペルム紀までという長期間にわたって生息していたが、余り多様化はしなかった。ミグアシャで見つかっているのは、ディプラカントゥス・エリシ(Diplacanthus ellsi)、ディプラカントゥス・ホリドゥス(Diplacanthus horridus)、ホマラカントゥス・コンキヌス(Homalacanthus concinnus)、トリアゼウガカントゥス・アフィニス(Triazeugacantus affinis)の4種である。

条鰭綱
条鰭類の主要な特色は、放射状の鰭である。最古の部類に属する条鰭類としてケイロレピス・カナデンシスが見つかっているが、これは、現生魚類の大部分に当たる25000種以上が含まれる条鰭類の、もっとも原始的な分岐と見なされている。

肉鰭綱
肉鰭綱は、脊椎動物の中で、水棲と陸棲の橋渡しを確信させる魚のグループを形成している。実際にこのグループでは、骨盤のヒレは大腿骨、脛骨、腓骨で胴体に繋がっているのに対し、胸ビレが上腕骨、撓骨、尺骨によって胴体に接合されていることが確認できるのである。 エウステノプテロン・フォールディ(Eusthenopteron foordi)は一世紀の間、魚類と四肢動物を架橋する存在と考えられてきた。以下の9種の肉鰭綱がミグアシャで見つかった。

ミグアサイア・ブレアウイ(Miguashaia bureaui)は最も原始的なシーラカンスと考えられている。
スカウメナキア・クルタ(Scaumenacia curta)とフレウランティア・デンティクラタ(Fleurantia denticulata)はハイギョの仲間だが、吻の長短で明らかな差がある[3]。
ホロプティキウス・ヤルウィキ(Holoptychius jarviki)、クエベキウス・クエベケンシス(Quebecius quebecensis)、un holoptychiidae gen. et sp. Indét. は、 Porolepiformesに属する。
エウステノプテロン・フォールディ(Eusthenopteron foordi)とカリスティオプテルス・クラッピ(Callistiopterus clappi)はオステオレピス下目に属する。エウステノプテロンは世界的にも有名で、ミグアシャでも多く見つかっている[4]。
エルピストステゲ・ワトソニ(Elpistostege watsoni)は、elpistostégalienに属し、ミグアシャで見つかる化石の中では、最も四肢動物に近い種である[5]。
無脊椎動物
ミグアシャの無脊椎動物の動物相には、知られている範囲では最古の部類に属する陸棲のサソリのペタロスコピオ・ブレアウイ(Petaloscorpio bureaui, 30 cm に達する)が含まれる。エスクミナック層に見られる他7種の無脊椎動物には、体長 1 mのeuryptéridesなども含まれる。

植物相
10種ほどの植物化石が存在しており、88種の胞子の化石も発見されている。この植物相の中で最も代表的なものはアルカエオプテリス(Archaeopteris)であり、この原始的な樹木がデボン紀の初期の森林を形作っていたのである。

2009年02月22日

トンガ語

トンガ語(トンガご)はオーストロネシア語族に属し、トンガで話される言語である。約10万人の話者がおり、トンガ王国の公用語となっている。構文はVSO(動詞-主語-目的語)。なお、禁忌を意味する「タブー」はトンガ語からの借用語である。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

オーストロネシア語族マレー・ポリネシア語群のポリネシア系に属する。ハワイ語、マオリ語(ニュージーランド)、サモア語(サモア)、タヒチ語(タヒチ)などと近縁関係にある。ニウエ島を中心にクック諸島、トンガなどで話されるニウエ語とともに、マレー・ポリネシア語群の下位区分であるトンガ語派を形成する。

文字と発音
トンガ語は本来無文字であり、ラテン文字を借用して表記する。ただし喉頭閉鎖音をあらわすには ' を用いる。

母音
a 英語の father
e 英語の met
i 英語の machine
o 英語の note
u 英語の tune

子音
f 英語の foot
h 英語の horse
k 英語のking
l 英語の lead
m 英語の man
n 英語の nest
ng英語の singer (finger とは異なる)
p 英語の stop
s 英語の see
t 英語の time
v 英語の vine
fakau'a ( ' ),喉頭閉鎖音

音節構造
1音節はただひとつの母音をもつ。したがって語における音節数と母音数はつねに等しい。

1音節はただひとつの子音をもつ。子音は組み合わせては用いられない(必ず母音に後続される)。Ng は子音の組み合わせではなく、単独の子音を表している。

すべての音節は母音によっておわる(開音節)。

ファカウア、すなわち喉頭閉鎖音は子音であり、したがって必ず母音に後続される。また語頭にたつ場合を除き、母音に前置される。

二音節以上をもつ語では、アクセント(強勢)は語末からひとつ前の音節におかれる。しかし一定の条件のもとでこのアクセントは語末または別の音節に移動する。実際の発話では、このアクセント移動には話者による差異がある。

変種
王の言葉、貴族(Hou'eiki)の言葉、民衆の言葉、の3変種がある。

トンガ語の資料
トンガ語は長く文字に書かれなかった。現在でも、聖書、モルモン書などの翻訳された宗教書、およびいくつかの書籍を除くと、トンガ語の書物はほとんど存在しない。トンガで入手できるほとんどの印刷物はもうひとつの公用語である英語で書かれている。

トンガでは週刊誌および月刊誌がいくつか発行されている。日刊の新聞は発行されていない。

2009年02月06日

三山時代

14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。英祖王統を滅ぼした察度が収める中部の中山、南部の南山(山南)、北部の北山(山北)である。この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。いずれも中国の明帝国に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、その中から察度の子・武寧を滅ぼした尚巴志の中山が勢力を増し、統一への動きを見せた。また、三山時代からこの頃までの間に宮古・八重山といった先島諸島も沖縄本島の政権の影響下に置かれるようになった。
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三山の中で、南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、まず1406年に中山王武寧(ぶねい)を滅ぼして、尚巴志の父である尚思紹を中山王につかせて基盤を固め、その後、1416年に山北(北山)を滅ぼし、その領土であった奄美諸島南部(沖永良部島以南)を侵略して領土に組入れ、1429年頃には山南(南山)を滅ぼして三山時代に終止符を打ち琉球を統一した。第一尚氏の始まりである(なお、1429年は統一した年ではなく、山南国の使者が明に最後の朝貢船を派遣した年で、この年までは山南王国があったと推測されている。ただし近年では1422年頃にすでに尚巴志の統一は済んでおり、従来との継続性から1429年に山南名義で朝貢したという説が有力である)。

第一尚氏王統
首里城正殿(復元)初代琉球国王尚巴志王は首里城を王都とした第一尚氏王統の基礎を築いたが、地方の按司の勢力は依然として強く、有効な中央集権化政策を実施することなく亡くなった。そのため、尚巴志王の死後、不安定な政情が続くことになる。彼の死後に第2代琉球国王に就いた尚忠王は在位5年で死去、第3代琉球国王は尚忠の息子尚思達王だが在位4年で死去、思達は子が無く、叔父の尚金福王(巴志の6男)が第4代琉球国王となるが彼も在位4年で死去した。金福の後継を巡って息子の尚志魯と弟の尚布里が争った結果、首里城は焼失、明からの「琉球国王之印」も失った上、両者相討ちとなった(志魯・布里の乱)。ここで巴志の7男である尚泰久が明へ使者を送り、国王印を下賜されて第5代王位に就いた。

内戦によって反乱分子は一掃されていたが、北山の按司による謀略など、地方まで勢力の及ばないことも間々あった。尚泰久王はそれまで島だった那覇と本島を結ぶ長虹堤を建設したが、工事がうまくいかないことから1451年に天照大神を日本本土から招き、祈願したところ完成したため、沖縄県内において最初の神社「長寿宮」を建立した。続いて「波之上宮」を初めとして琉球八社といわれる神社が整備された。彼は貿易立国琉球を自認して「万国津梁之鐘」を鋳造し、日本僧芥陰に選ばせた文章を鐘に刻み付け、琉球が交易によって繁栄していることを喜んだが、1458年に完成すると在位7年で死去した。この鐘は復元され、現在も首里城にある。

尚泰久王の子である尚徳王は在位9年で急死する。法司(後の三司官)は尚徳王の世子を王に推挙しようとしたが、安里大親がこれを押しとどめて、重臣たちを前にして、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)を次期王に推挙した。重臣たちはこの提案に賛同し、これによって、金丸が1470年、国王に即位した。金丸は、1472年には明から冊封使が派遣され、中山王に封じられた。金丸が即位した経緯については、正史の記述のほかに、クーデターだったのではないかとの説があり、実際に金丸によって第一尚氏王統の王族はほとんどが殺害されている。

第二尚氏王統
琉球の黄金時代
尚真王の治世は琉球の黄金時代であった。金丸は即位後尚円王と名乗り、第二尚氏王統が始まる。尚円王は在位7年で亡くなると、世子・真嘉戸樽(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王が即位した。しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸樽に神託を読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王は在位六ヶ月で退位し、越来に引退した。その年の内に薨去したと伝えられる。

1477年に真嘉戸樽は王位に就き、第3代・尚真王として50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築く。彼は仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備した。さらに南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めた。また国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えとした。

第二尚氏は第一尚氏に引き続き、15世紀から16世紀前半にかけて活発な海上政策を行った。中国の福建(福州)に拠点をもち、明王朝と朝貢貿易を行ったほか、明の軍事的な権威を背景に積極的な貿易を行い、日本本土の諸港にも交易船を送った。琉球の海上政策は朝貢による明王朝の軍事的な庇護と同時に、海禁政策の間隙を突き、中国と東南アジアとの中継貿易を行ったものだが、北方民族との戦いを続ける明の要求によって、琉球からは火薬の材料である硫黄と物資輸送用の軍馬が主に捧げられた。またマレー半島のマラッカ王国、パタニ王国、タイのアユタヤー王朝など東南アジア諸国とも活発な外交・貿易を展開した。

政権が安定すると、かねてから内属していた周辺島嶼の支配を強化した。石垣島の按司オヤケアカハチが琉球の官吏に、政治改革や改宗を迫られた為に反抗、琉球への朝貢を拒否して反旗を翻したため、尚真王は1500年に征討軍を送った。宮古島の豪族・仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミャ)は琉球軍の先鋒を勤め、石垣島に侵攻してアカハチを殺害し、先島諸島が完全に領有された。与那国島は女首長サンアイ・イソバ(実在したかは不明)の下で独立が続いたが、琉球王府の承認の元、宮古島の仲宗根により1522年に制圧された。この経緯から、当初は八重山と与那国島の直接の支配権は仲宗根豊見親が握っていたが、二年後には琉球王府の直接統治へと移行していった。1524年には、園比屋武御嶽石門を作ったことで知られる西唐を竹富島に帰郷させ、蔵元(八重山一帯を担当する王府の行政出張機関)の長として就任させているが、これが王府による先島統治の最初である。奄美諸島については、1447年、尚思達王が奄美大島を従わせ、1450年から1462年まで喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃していた。1466年、尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧した。1537年には尚清王が、奄美大島の与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。1571年には尚元王が、再び反抗を始めた奄美大島の領主達を制圧している。この間、権益の奪還を目指した日本本土勢との間に、多数の戦闘が発生していた。(奄美諸島の歴史参照)

この時代が琉球の黄金時代であったが、16世紀後半には明が中国船の海外渡航を日本を除いて許可し、中国商船が活発に東南アジア諸港で活動を始めたことや、スペインやポルトガルなどの南蛮勢力が台頭したこともあり、琉球と東南アジアとの交易は急速に衰退し、1570年には東南アジア貿易を廃止した。また、ハンス芋(藩薯芋)が野国総管の手によって中国から持ち込まれたのは1605年のことである。これは麻平衡・儀間真常により琉球中に広められた。琉球ではトウイモ(中国から来た芋なので唐芋)と呼ばれ、琉球全土の食糧事情を劇的に改善して餓死者を減少した。野国総管の功績は現在も称えられている。因みに、薩摩にはその後1705年に琉球より伝来し、本土では薩摩から来た芋としてサツマイモ(薩摩芋)と呼ばれ、現在はその名称が定着している。

一方、薩摩(現在の鹿児島県)の島津氏は、戦国時代を通じて疲弊した自家の財政を立て直したいと考え、琉球を通じて明と貿易することを望んだ。1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。

この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されている。

江戸幕府の明通商計画
琉球の衰退に対し、琉球を通じて明と貿易を望んだ薩摩国などを統治する島津氏は、豊臣秀吉による天下統一の頃から琉球王国への要求を強める様になった。秀吉も朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じるなど、日本側の圧力は強まっていった。1603年に江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになるが、対等な外交を認めない中華帝国である明との通航には、明へ服属しなければならず、これを避けるために琉球を介した間接貿易を画策した。1602年と1603年に相次いで琉球の辺民が漂着したため、彼等を届ける見返りとして間接貿易に応じるように琉球王府へ働きかけたが、承諾は日本への服属(日本による貿易操作)を意味することと王府は考え、幕府の申し出を拒否した。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

薩摩の侵攻
第二尚氏第7代尚寧の1609年3月4日、樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。3月8日に奄美大島へ上陸し、地元按司の反撃を受けたものの制圧、3月22日に徳之島、3月24日に沖永良部島を攻略し、3月26日には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。琉球側は4,000名以上の兵を動員したが、日本国内の戦国時代を経験し強兵であった薩摩の本格的侵攻に対し、本土勢力との戦いは境界付近での小競合い程度で薩摩ほど経験を持っておらず、大貿易時代の終結で国力が低下していた琉球軍は抵抗及ばず首里城は陥落する。尚寧は和睦を申し入れ首里城から下城した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に帰った。

翌1610年、尚寧は首里城を離れて、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美諸島(度々独立戦を起こし、琉球は持て余していた)を割譲させ直轄地とし、割譲後も表面上琉球領の体裁を採らせるため、王府の役人の派遣を続けさせた。

1611年、尚寧は琉球に戻され、三司官以下(鄭迥・謝名親方利山をのぞく)の重臣に、島津氏への忠誠を誓う起請文を提出させられ、国家の存続が認められた。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。

以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。すなわち、薩摩藩の密貿易である。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続け、薩摩藩は琉球が清との交易で得た利益で潤った。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させ、異国ということを意図的に強調させた。これは、幕藩体制下の日本において、異国である琉球をともなっている、薩摩藩の権威と地位を向上させるという狙いがあり、幕府にとっても中国の中華思想に基づく朝貢貿易と同じ性格の関係を琉球と持つことにより、中国と対等であるという意識を持てると言う利点もあった。

2009年01月22日

慰安婦の直接の雇用主である業者

吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。[45]。その背景としては、慰安婦の直接の雇用主である業者が、慰安婦から「前借金」「衣装代」「食料代」等の名目で給与を天引きしており、実際に慰安婦の手元に渡された給料はほんのわずかというケースが少なくなかったことが挙げられる。
慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票(軍用手票)という特殊な紙幣によってなされていたが、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同様になってしまい、払戻しが受けられなくなったケースが多かった。また、戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落しており、慰安婦が受け取る軍票の額面は膨れあがったケースがあった。吉見義明は、「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している[36]。
もっとも、慰安婦が高い報酬を受け取っており、豊かな生活をしていたのではないかとの主張もみられる。そのような主張に関連して、以下のような事実が指摘されている。
当時の陸軍大将の俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった[8][2]。
元慰安婦の1人文玉珠は、1992年、慰安婦時代の2年半の間に貯めた郵便貯金2万6145円の返還請求訴訟を行ったが、日韓基本条約に付随する日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとされ敗訴した。裁判で明らかにされたところによると、26,245円の貯金から5,000円を朝鮮の実家に送っていたという[[46],P138]。この元慰安婦自身の体験記によれば「千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えた」という[[47],p301]。上野千鶴子の慰安婦裁判の取材によれば、郵便預金返還訴訟を起こした文玉珠の貯金は、性交労働の代償ではなく、軍人からのお駄賃をため込んだものであるという。
米軍作成の日本人慰安所経営者及び慰安婦に対する尋問レポートによれば、北ビルマのミートキーナの慰安所の慰安婦たちは売り上げの半分を報酬としてもらい、稼ぎは月に1000?2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もいる。[48]兵士の月給は15円?25円。[8],p270]
フィリピンのマニラの慰安所を利用した日本兵捕虜に対する連合軍の尋問記録によると、慰安婦は通常、スペイン人とフィリピン人の混血であり、利用料金は10円ないし20円・・・・日本人及び朝鮮人女性については2円ないし3円であった」という[[49],P487] [8]。
中国漢口の約三十三万人と全兵士の金銭出納帳を調べたら、三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だったといい、ある内地人(日本人)の慰安婦は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」と語っていたという。慰安所の料金は女性の出身地によって上中下にランク分けされており、兵士の方は、階級が上であるほど、利用できる時間は長くなり、料金は割高になっていたという。[2]
吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由で、ラバウルへ行き、慰安婦となったといい、「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している[50]。
スマラン事件(「白馬事件」のBC級裁判の判決文が引用した証人・被害者に対する警察の尋問調書によれば、何人かの女性は報酬を断ったが、受け取った女性はそのお金で自由な時間を得ることができたことを報告している。「将校倶楽部」では、一晩に一人の男性の相手にし、男性が料金として支払った4ギルダーのうち、1ギルダー1セントを受け取り、そのお金で食べ物や衛生用品を購入したとされ、「慰安所日の丸」では、一時間1ギルダー50セントの料金のうち、45セントを受け取ったと慰安婦自身が証言しているる。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

からゆきとの労働条件比較[52]

からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、

一人2円のうち娼婦の取り分は1/2、その内で借金返済分が1/4、残り1/4から着物・衣装などの雑費10円を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」 といい、それは最少で月110人に相当する。
(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた。)

普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。
泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。(接待時間ではなく、性交労働時間だったと思われる)

当時の物価だが、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったと言える。[53]
現地人を客にすることは一般に好まれず、ある程度接客拒否ができたようである。
しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

2009年01月15日

薬学(やくがく)


わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー
薬学(やくがく)とは、薬物を専門とする学問である。大別すると医療をサポートする学問領域の医療薬学と薬の発見と製造に関する領域の医薬品化学とに分けることが出来る。

940年代以前は、前者は医学における一大分野であり、後者は有機化学の主たるテーマの1つであった。20世紀に入り有機化学、生物学および医学の著しい発展とともに「薬」を軸とする学問分野も展開し、1950年代になると、(日本国では)それらを統合した薬学を専攻する機関として薬学部が設置され、医学や化学などとの領域分担が明確になっていった。

日本国では、大学で6年制の薬学科を修了すると薬剤師国家試験の受験資格が与えられる。したがって薬剤師は必ず学士(薬学)以上の学位を有する。しかし、薬学者には理学博士、工学博士、医学博士、歯学博士や農学博士などの薬学博士以外の学位を持つ場合も見受けられる。

基礎薬学
薬学の基礎領域科学には次に挙げるものが知られている。

有機化学 - 物理化学 - 分析化学 - 放射化学 - 医薬品化学 - 天然物化学 - 生物有機化学 - 生薬学 - 栄養学 - 農薬学 - 火薬学 - 創薬学 - 工業薬学 - 解剖学 - 組織学 - 生理学 - 細胞生物学 - 微生物学 - 寄生虫学 - 分子生物学 - 免疫学 - 生化学

医療薬学
薬学の応用としての医学との学際的分野であるが、大きく二つに分けると次のようになる。

薬剤学・臨床薬学関連分野
医薬の使用をテーマとした医療サポートに関連が深い薬剤学・臨床薬学に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。 薬理学 - 物理薬剤学 - 化学薬剤学 - 生物薬剤学 - 薬物動態学 - 調剤学 - 製剤学 - 医療薬剤学 - 病理学 - 内科学 - 外科学 - 病態生理学 - 薬物治療学 - 医薬品情報学 - 日本薬局方 - 薬物学 - 漢方薬学 - 歯科薬理学 - 家畜薬理学 - 臨床化学 - 神経化学 - 粉体工学

衛生薬学関連分野
衛生上の知識に関連する学問分野として次に挙げるものが知られている。

衛生化学 - 栄養化学 - 環境科学 - 疫学 - 公衆衛生学 - 口腔衛生学 - 家畜衛生学 - 病態生化学 - 毒性学 - 生態学

社会薬学
社会薬学は薬がもつ社会的使命や価値に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。(尚、これらは自然科学のみならず,人文科学・社会学とに融合する部分がある)

薬と社会 - 薬をめぐる行動,関係,相互作用 - 薬害の社会学 - 薬の社会学 - 薬剤経済学 - 薬史学 ?レギュラトリーサイエンス - 薬物乱用

主な薬剤
抗炎症薬
抗生物質
抗ウイルス薬
向精神薬
睡眠薬
抗不安薬
抗うつ薬
抗癌剤
鎮痛剤
麻薬